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白石提言:「メモ」から始めてもよい、「聞きとり・聞きこみ」の実践分析を [通信原稿]

2月例会報告

 このたびの「実践記録の分析」(「分析」という用語は用いたくないのだが、ここではその理由は省く)のために報告してくれたのは若い教師であった。彼にとって初めてのことなので、まず一枚だけ、要点だけを書いてきて、実践の内容については口頭報告でよい、ということにした。

 その理由は二つある。理由の第一は、実践報告をするためのハードルを低くする試みである。いきなり長い文章とか、実践の構想と省察とか、むずかしいことを要求しても無理である。まず実践を語ってみる、語る過程で自分の悩みや自分の課題が明瞭になってくる。そのために必要なことが、サークルの参加者の「聞きこみ・聞きとり」なのである。

 実践記録の読みにおいて、もっとも重要なのは、「聞きこみ」である、というのが私の見解である。この点についても詳細に論じる余裕はないが、いくつかだけその理由を挙げておく。実践記録は、その一部だけを裁断して評価したり、評価する人が高みにたってアドバイスしたりするのでは、レポートした実践家に響かない。レポーターの意図や実践の物語に即して、あなたには指導のチャンスがあったのです、という言い方をしないと、レポーターがイメージを伴って納得しないし、批評した人自身の成長にもつながらない。

 理由の第二は、若い教師に、いわゆる「官制研修会」に提出するようなレポート書いてほしくなかったからである。「官制研的」というイメージは、県や学校の教育目標を列挙して、それを達成するために自分のクラスで何にとりくんだのか、秩序を維持するために服装や遅刻などにどう対応したのかなど<私はきちんと指導しています>という証拠と<生徒に学びながら成長していきます>という決意がちりばめられているものである。

 これは、2011年の高生研全国大会の基調である「実践記録を書くことの意味」をめぐる議論のなかで浮かび上がった問題である。若手が「書けない」ことに加えて「書くことの視点がちがう」ことも問題になった。何でもいいから書いてほしい、と依頼しておきながら、その内容が依頼者の意図に沿っていないことになり、議論ができないので落胆したり、若手を批判したりする、このような不幸な事態を避ける工夫が必要である。

 だから、このたびの実践分析会は、報告者に「一枚のメモ」をもとに話してもらい、参加者は「聞きこみ」に徹することにしたのである。また、実践記録を「読む」ということは、報告者に対して意見をするというよりも、自分の問題関心を抉り出し、それを表明するという性格をもっている。文学理論が教えるように、文学作品を読むとは「作者」の意図を読むのではなく、読み手である「自分自身の」問題関心を読むことなのである。この「論理」は実践記録を読む際にもあてはまる。

 「実践記録を読むとは自分を読むことだ」という観点について、一言だけ述べておきたい。“手前味噌”になって申し訳ないが、私は、若い教師が書いたテクストを読みこむことで、それに対する私の立ち位置や(ある程度)普遍的は対応をていねいに語るように呼びかけられたと感じたのである。それが、「公的」指導と「私的」指導の二つの顔をもつ、という方策であった。そして、この方策は別に新しいものでもなく、すでに高校生活指導実践史の中にヒントとして宿されていたこともまた、重要なのである。私たちの先人と仲間たちの営みに多少の自信と矜持をこめて、足元にある記録を活用したい、と改めて実感したのである。(しらいしよういち)

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「主権者教育・高校生を市民に~私たちで拓く日本の未来」 [通信原稿]

総務省・文科省から全生徒分、配付されてきたテキスト『私たちが拓く日本の未来~有権者として求められる力を身に付けるために』を、どう活用していくか。

実践②「地域課題を見つける」を冬休みの宿題として出した。
まず、生活の中で困っていること、気になること、良い取り組みなどを洗い出して、それらに対しての自治体の取り組みがどうなっているのかをまとめる。「行政発行広報誌」や「自治体の長期計画」「議会発行情報誌」「議会議事録」から見つけるというもの。地域づくりを支える有権者として何をしていけばいいかを考えるのが着地点。

でもここで終わらせたくない。模擬請願の実践編へとつなげたい。
上記で自分が着目したことについて、計画は自分の考えから遠い場合もあるだろう。地域の課題を解決するために願いをまとめて議会に請願し審議してもらうこともできる。自分の住む議会への請願書・陳情書を課題別にグループで書かせたい。
できれば長期休み中に議会事務局に訪問し、請願・陳情を実際の議会に提出させたい。委員会・議会で請願・陳情が議論・採択されれば、大きなニュースになると期待している。高校生を「街の課題を積極的に考え、まとめ、政策化する市民」にしていきたいと考えている。

ちなみに、テキストでは「議会事務局訪問は模擬請願について意見を聞くことや、請願を議論している委員会を傍聴することを想定」しているが、「請願権は有権者でなくても誰でもできる権利」ということを教えるために、実際に提出までさせたい。

3月には県知事選挙が行われた。熊日新聞が「青き一票」という特集紙面を作成した。
県の課題を3つ探して、候補者の選挙公報などを参考に評価するというワークシートがある。
また「候補者の政策を分析・評価しよう!」というワークシートを参考に、各候補者の「評価できる政策・キーワード」についても深めた。

これらを元に模擬投票を行った。投票所を実際に設置して、学生証を提示して、生徒名簿と照らし合わせて、投票用紙を渡した。

以下が生徒たちの感想
・今まで政治に関心はなかったのですが、もっと政治について関心を持っていこうと思いました。県政は漠然としていたけど、身近に感じるようになりました。
・今年の夏に参院選があるけど、その時には選挙権がないので、全く何も考えていなかったけど、関心を持つようになった。新聞も全く読んでいなかったので、読むようになった。関心を持つようになったのは、中小企業へのサポートや子育てについて。意見を交換することによって、自分が気づかなかったことについて、目を向けるようになった。
・中学か高校の社会科の教員になりたくて、以前から政治のことに関心があった。20歳以上の人でも「分からない」「めんどくさい」という理由で選挙に行かない人は自分の参政権という権利を捨てているわけで、自分から政治に口出しをしないと言うことを宣言していることになる。政治に何も言えないと言うのは損していることになる。自分が投票する権利、国を動かす権利があるのに、もったいない。みんなが自分考えをしっかり持って、投票していったら、政治は変わるのではないかと思っている。

以下は「2016 マニフェストスイッチ熊本」のページです。
http://kumamotomogisenkyo.strikingly.com/
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2月例会・大塚報告「主権者教育」 [例会報告]

 2015年に公職選挙法が改正され「選挙権を持つ年齢が18歳以上」になったことは、みなさんご存じだと思います。「18歳選挙権」に伴い、高校現場でも「主権者教育の重要性」が熱心に語られるようになりました(というか政府・総務省・文科省の意向が大きいのですが)。「18歳を市民に」という高生研のスローガンは、今や政権が後押ししてくれる”なう”なテーマなのです。言いかえれば、「選挙権」は、社会科(地歴・公民科)だけが担当すればいいという考え方では通用しなくなりました。「政治的中立性」は、教職員すべてに求められるようになったともいえます(「中立性」が具体的に何を指すかが問題ですけど)。
 
 大塚さんは、管理職から「18歳選挙権」や「主権者教育」について質問され、その流れで「生徒向けの授業」と「職員研修の担当者」を引き受けられたそうです。「これも勉強だ」と思い、インターネットや各種文献を集められ、指導案やパワーポイント(以下PPと略します)でのプレゼン資料を作成されました。

 まず全学年に対し、講義形式で1時間の授業をなさいました(ちなみに、その授業の前に総務省熊本行政評価事務所からの出前教室もありましたが、生徒にとっては、やや難しかったようです)。

 大塚さんのレジメとPPは、大変工夫された分かりやすいものでした(生徒も最後まで集中して聞いたそうです)。『そうだ、選挙に行こう!』と題されたPPは、5項目(27枚)で構成されていますが、各項目(例えばA「政治的リテラシー」やB「選挙運動って」などで、必ずキーワードを入れています(先ほどの例ではA’「自分自身で考え、判断する」やB’「誕生日と選挙」など)。生徒にとって具体的で理解が容易だと思いました。もちろん「認められた活動と禁止された行為」をきちんと押さえておくことも忘れません。最後に「自分たちの思いや声が届くように、自分で出来ることから少しずつ行動しよう!」とまとめられました。

 また、「指導上のQ&A」という職員研修用資料もPPで作成されていました。これは11の問いと解答が提示されていて、クイズ形式で教職員に考えさせるものです。例えば「主権者教育の一環として録画した政見放送を校内で放映することは差し支えないか?」という問いにはどう答えますか?(答:校内放送の設備を選挙運動に利用することは禁止されているので、できない)。社会科教員の私でも、結構間違えました。

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2月例会のお知らせ「実践レポート」 [お知らせ・連絡]

2月の学習会は、実践レポートの二本立てです。

第1部は、実践レポート分析です。高校の担任として日々のHR運営の中で感じる
悩みやクラスでの取り組みを報告してもらいます。その取り組みの実際と、生徒
にどのような働きかけをしたのかを分析し、クラス集団としての課題とその克服
の方向性など参加者で考えます。生徒の声を読みとりながら、対話を進めようと
する試みと悩みを、参加者みんなで読み合いましょう。
 
第2部は、「主権者教育の実践と一考察」という内容で大塚先生が報告されます。
水俣高校全日制で、生徒対象に総務省熊本支局から講師を招いて「主権者教育」
があったそうです。その内容と方法について、自らの実践と比較・考察した報告
です。各高校にも総務省・文科省から『私たちが拓く日本の未来~有権者として
求められる力を身に付けるために』というテキストが全生徒分、配付されて、各
学校において有権者教育の計画・実施が求められています。情報交換の場になる
と思いますので、各学校で担当の先生を誘っておいで下さい。皆さんも各学校で
取り組んでいることや企画、他校での実施例などを紹介しあいましょう。

日時:2月27日(土) 14:00~16:00

場所:熊本大学教育学部1階 1-A教室

学習内容: 実践レポート検討
(1) 「クラスの現状と課題」    熊本県立高校 教員

(2) 「主権者教育の実践と一考察」 水俣高校 大塚さん

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1月例会「計算のない授業づくりへの模索」 [お知らせ・連絡]

1月の学習会は、定時制高校の深久史朗さんによる数学の模擬授業と実践報告
です。

 皆さん、数学は好きですか?深久さんは数学嫌い・計算嫌い生徒の発言に触発
され、「計算のない数学の授業」づくりに取り組まれています。その模索の中で
深久さんは「数学とは何か」「数学を通してどんなことを考えさせ、どんな力を
身につけさせるのか」という、教師として学ぶ側に立って、根本的なところに立
ち返ることを経験しました。今回はその「計算のない数学」の模擬授業『数楽』
をわれわれも体験し、深久さんの報告をもとに「共に考え学ぶこと」について深
めたいと思います。
 アクティブラーニングや協働学習のヒントにもなる学習会になると思います。


日時:1月30日(土) 14:00~16:00

場所:熊本大学教育学部1階 1-A教室

学習内容:「計算のない授業づくりへの模索」
      定時制高校 深久史朗さん

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熊本県高校生活指導研究協議会第45回県大会のご案内 [お知らせ・連絡]

実践提案「子どものSOSを見逃さないで」
(講師:清田一弘さん)13:00~15:20

子どもを「きちんとさせよう」という“熱血指導”が流行のようですが、このやり方では、子どもをおいつめて、子どもから反発を受け、教師も傷ついてしまいます。あるまじめな教師は“問題が起きたらとにかく家に行け!”という先輩の教えにしたがって、子どもの問題行動に“熱心に”取り組みながらも、子どもから拒否されてしまいました。

このような苦い経験を「糧」にしながら、教師が子どもとともに成長しなおしていった物語です。じつは、「問題」をおこし「暴力的」になる子どもは、人に言えない「生きづらさ」をかかえています。<子どものSOSを見逃さないで>という子どもの発する声に応えながら学びの意欲を回復していきます。

この実践は、教育と社会から「排除」されがちな子ども・生徒に応答し、教育と福祉が連携する道を探りながら教育という営みそのものを問いなおす試みなのです。
(清田一弘・志成館高等学院 NPO法人日本教育相談研究所「くまもと共育会T・T」)

実践報告「勉強とスポーツ以外で高校生の生きる道をつくる」
(講師:吉田真一さん)15:40~18:00

高校生に対して“勉強をしろ”、“スポーツをがんばれ”と叱咤激励するだけで、生徒たちの進路に責任が持てるでしょうか。彼ら・彼女らが社会で生きていく力をつけることができるでしょうか。
公立高校教師の吉田さんは、「菊池世界一プロジェクト~流しそうめんで世界を越えろ~」や「菊池川流域プロジェクト」などコミュニティーカレッジ構想をうち上げて、菊池市役所や商工会や観光協会からも注目されています。

生徒が地域の人たちと一緒にイベントをつくることで「地元の人」「本職の人」「技術に精通している人」に出会う。生徒会行事にかかわることで企画力・調整力など社会で生きる力が育つ。地域の文化や産業を知ることで地域に参画し、地域で働く一歩ともなる。この試みをとおして高校教育の枠組みを問いなおし、高校が地域から支持される道を探ります。
吉田真一さん(公立高校)

期 日: 2015年11月28日(土)13時から
場 所: 熊本大学教育学部棟1-B講義室
参加費:1000円(会員になる方は、参加費無料)

交流会を企画しています。(18時20分から)
ご希望の方は、受付にて申し込んでください。

*主催:熊本県高校生活指導研究協議会 
*問合せは、熊本大学教育学部、白石陽一まで
 電話:096-342-2626
 メール:shiro@educ.kumamoto-u.ac.jp




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不登校の息子が感じた学校の息苦しさ [通信原稿]

小森 糸さんの実践報告を読んで

 私の息子は小学校1年生の時、「学校に怪獣がいる。学校より大きい怪獣がいるから怖い」そう言って学校にいかなくなってしまいました。初めの頃は何か嫌なことが学校にあるのだろうなと思っていました。小森さんの実践記録を読んだ今は、怪獣が「学校の息苦しさ」であることが想像できます。

 そして当時の私もその後「息苦しさ」という表現ではありませんが、それを感じることになりました。最初に実感したのは、息子が通う小学校で、1年生全員に書くよう指導されていた「誰とでもお友達ノート」というものです。〝今日は誰々と遊んで楽しかった″〝今日は誰々ちゃんと遊んで嬉しかった″と、お友達の名前をあげて毎日記録するものでした。A4版の縦線が引かれたそのノートは、書き込む欄が2行ほどのもので単なる記録でしかなく、これは日記ですらないのだと感じたのを覚えています。家に持ち帰るものではなく、帰りのホームルームで記入し提出するものでしたので、授業参観でそれを知り大変驚きました。

「誰でもお友達ノート」の意味を先生に尋ねてみました。「早くみんなとなかよくなってもらいたい。好き嫌いなく誰とでも遊べることが大事だから」と言われました。友達関係を作ることが、まるで評価される ような事になってはいないか、それで、本当の友達になれたとはいえないのではないか、と話しましたが、「学校ではそういった形から入って行くことも必要な場合がある」「学年で話し合って決めたことだから、今後も続けます」と言われ引き下がるしかありませんでした。

 私の息子は、実は幼稚園を年中組の時、中途退園しています。人見知りが強かったために友だちは限られており、本当に心を許せる友だちと、コアな付き合い方しかできないようでした。年少組の時にすごくなかよしになったユウ君が大好きで、その子と遊ぶのが楽しみで通っていました。でも年中組に上がる時、クラスが別々になってしまったのです。

 嫌がりながらもしばらくは通いましたが、「早く外に出らんねー」という普段より強めの声となっていた頃、中途退園しました。息子は「運動会の練習は嫌い。先生が怒ってばかりいる」と言っていました。運動会前の練習が佳境に入り、担任の若い先生の焦りが怒っているように見えていたのでしょう。

 本題に戻ります。そんな性格の息子にとって「誰とでもお友だちノート」は苦痛以外の何物でもなかったのです。でも先生はそれが子どもたちのためになる事だと確信しておられました。「息子さんがそれが苦痛なら毎日ではなくても、遊べた時だけ書いてくれたらいいから」と言われました。

 しかし、クラス全体でみんなが取り組んでいて、「今日は誰と遊んだ?」「私は○○ちゃん」「俺、○○と遊んだ」とやっている中に一人だけ話題にも入れないならば、書かなくてもいいと言われても、居心地が悪くてたまらないだろうなあと思いました。

 学校に行きたくなくなったのは、勿論それだけが理由ではありません。入学式の日から兆候はありました。そのクラスは入学式当日から、子どもたちはみんなくったくが無く、教室に入っても自由に楽しんでいました。先生が「みなさーん、聞いてね」と話しかけてもワイワイ、ガヤガヤ、おしゃべりが止まらない子どもで溢れていました。中には指導的立場の子がいて「みんな!先生がお話してるよ、黙らんね!」と大きな声で叫んでいる子もいて、それはそれは賑やかでした。

 私は昔自分が小学校に入学した時と、あまりに違う状況にたいへん驚きました。嬉しさの反面緊張を伴ったはじめての学校ですから、まわりの友だちをチラチラ見るくらいはしますが、先生がしゃべり始めた時は、集中してみんな聞いていましたから。昔のような当たり前と思っていたコミュニケーションの取り方は学校で通用しなくなっているのかなあと思い、先生も大変だなあと思っていました。

 息子のクラスの先生は、怒りもせず優しい声で、「みなさーん聞いてね」と忍耐強く繰り返していました。そんな状態の中で息子は、怒ったような困ったような顔をして腕組みをして口をグッと結んで、じっと前を見つめていました。先生を見ているのでもありません。ただ前を見ているだけでした。

 その後完全に不登校になりましたので、その時の息子の中で何が起きていたのか、ずっと考えてきましたが、おそらく先生とクラスの騒々しい同級生たちの間で板挟みのようになって、自分がどう振舞っていいのかわからないでいたのだと思います。こうすべきだということを発信する勇気もないし、一緒に騒ぐこともできないし、どうしていいのか分からず困り果て、自分にもみんなにも怒っていたのかなあと思っています。

 そんな下地の元に、先生方が信じてやまない「この子たちのためには、こうあらねばならない」といった決め事や、そういった苦しみや辛いことを「乗り越えて」いくことこそ学校の役割だという、学校の中にある様々な理由が重なり合って不登校になっていったのだと思っています。これはやはり学校にある「息苦しさ」だと思います。「生き苦しさ」かもしれません。しかも多くの場合、先生方の教育者としての信念であり善意であるので、簡単には変えることはできません。

 小森先生が〝小さなわたし″のことを書いておられます。息子に重なる部分が多く、涙が出そうになりました。

『成長は「社会で生きるために元気な体と、明るくたくましい心をとを身につけた強い人間」に向かうためのもであることが、学校に感じていた「息苦しさ」だったのではないかと思う』というところがあります。

 これも強く共感できる言葉です。みんなが強く、たくましく、元気でなければ社会で生きていけないのか、そのためにはそれができない子は「乗り越える」事しか社会で生きて行く方法はないのでしょうか。なかなか乗り越えられないでいる自分を肯定できなければ、いつまでたっても本当に「乗り越える」ことはできないと思います。だから「乗り越えたふり」をするしかなくなります。それがかつてよく言われたいた「透明な自分」を作り出していったのだと思います。今もそのような状況は変わっていないのでしょうか。

 小森先生のすごいところは、自分の経験を元に、教育の営みに思考を馳せていったところです。「頑張っていないありのままのわたし」でいられる高校に出会ったことが、小森先生の独特の探究心を呼び起こしたのではないでしょうか。

 通常であれば子どもの頃、自分が苦しい思いをした学校に再び戻って教師として生きようとは思わないのではないかと思ったので「独特の探究心」と表現しましたがそこが小森先生の素晴らしさだと思うからです。

 今の学校の中にある「当たり前と思われているが実は普通ではないこと」が浮き彫りにされているところが、よく分かるのが、公立の学校と現在お勤めの通信制の学校との対比でした。

 「不自然で不必要なことを強いる教師の姿」は学校が「教育とは強制である」ことを実践している証拠だと思いました。子どもたちが、自分を否定しながら、それさえも〝慣れること″で〝乗り越え″ていく様は正に〝強制″に成功した結果ではないでしょうか。強制に成功したからといってそれが〝成長″といえるのかとても疑問に思います。

 通信制の高校は「学びというものから疎外されてきた子どもたち」の〝生き直し″をしなければならないので、本来ならば相当難しい教育の場であるはずです。また、公立の普通の高校であればありえないような概念を持たなければ、通用しないのに「自分が自分でいて嬉しくなれる時間」を教師が共有しているというのはほんとうにすばらしい学校だと思います。その状況に自分をも解放しながら、傷ついてきた子どもたちに対応できているのですから、小森先生にとっても、子どもたちにとっても、その子たちの親にとっても、とても幸せなことだと思います。

 私の息子は小学1年生の1学期の半ばで学校に行くことをやめ、中学校には全く行きませんでした。親たちで作ったフリースペースに7歳から12歳まで通いました。13歳の時にそのフリースペースから3人で〝独立″し自分たちの新たなフリースペースを作ってそこで過ごしました。不登校を考えるお母さんたちであり、運営委員である方々の助けを得ながらの3年間でした。

高校は通信制の高校に通い、今は大学3年生となりました。長い間学校に通わなかった事の影響が全く無いのかといえば否定はできませんが、息子にとっては、学校に行かなかったことの方が、前出の〝強制としての教育″の影響を受けることなく育ってきたことは良かったのではないかと思っています。

 小森先生、貴重な自分の経験の報告を読ませていただき、たいへん感謝しています。子どもが不登校の真っ只中であった時にこの実践報告を読んでいたら、多分、号泣していたと思います。理屈では学校のあり方や教育に問題があると考えてはいても、親はどうしても自分の育て方に問題があったのではないかと思ってしまうからです。いつもどこかに引け目を感じているからです。

担任をしてくださった先生たちはみんないい方ばかりでした。優しくて、いつもうちの息子を気にかけてくださいました。でも、学校や教育についての意見が合うことは一度もありませんでした。「学校はそもそも楽しいところではないのですよ」と言った先生。「お母さん、そういうこと(教育のあり方の問題)を考えない方が息子さんのためになると思います」と言った先生の言葉を今思い出しています。

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「子どもと教師、どちらも大切にされる学校とは」 [例会報告]

3月学習会報告
 「子どもと教師、どちらも大切にされる学校とは」 浦崎勇一

 『高校生活指導』2015年春号の特集は「教師と生徒の『息苦しさ』を開く」で、学習会で取り上げたのは小森糸さんの実践報告「子どもと教師、どちらも大切にされる学校とは」を共同で読み合った。

今回の学習会をコーディネートした白石陽一さん(熊本大学教育学部)は、この実践を共同で読み合う理由を、以下のように挙げていた。※( )は、浦崎の補足。

(1)若い教師が、自分の学生生活も含めて「学校の息苦しさ」とどう向き合ってきたのか、そのイメージをつかむことができる。

(2)自分の実践を物語ることや省察すること、それ自体が(教師が行う)教育実践(の一つ)であることが理解できる。これは実践分析をどう読むのかという課題と重なっている。

(3)いわゆる「力のない」教師でも、ゼロトレランス的学校秩序の中で、(私たちが)どのようにしたら(自分らしい)実践を進めることができるのか、そのヒントが見える

(1)学校という息苦しさの中で

この小森実践報告は、「繊細な小さな自分」が学校の息苦しさの中で押しつぶされてきた姿が述べられていく。
 読み進めていくと、まるで「小さな自分(私)」がそこにいるように引き込まれていくのがわかる。
 そして赴任したゼロトレランスの規律の厳しい公立学校の中で、教師が生徒を言葉で傷つける姿に心を痛め、子どもと同じように傷つく小森さんの心の叫びが投影される。「不自然で不必要な ことを強いる教師の姿」「式典の際は、生徒指導の教師が、列の間を歩き、生徒を睨みつけては怒鳴っていた」「張りつめた空気と重圧に私自身が押しつぶされそうになった」「体調の悪い子、緊張に耐えられなくなる子など数名がばたばたと倒れていく。けれど式典は続く」。

 読んでいる私でも、背筋がゾッとする。さらには「式典に向けて体調管理がなっていない、最近の子どもは心が弱いなどということが教師間で話される」。そこには、子どもの人権以前に、人権意識が学校という場に、教師の間に共通認識がないことに戦慄をおぼえた。

そんなすさんだ「戦場」で、小森さんはまた心を痛めるのである。「子どもを追いつめている学校や教育の実態については話し合われない」「そのことに対しておかしいと思いながら何もできない無力な私がいた」と。授業中、廊下では子どもを罵倒する怒鳴り声が頻繁に聞こえてきたが、止めにいくことも「おかしい」と言うこともできなかった。いつも、びくっと体が硬直してしまう私は、授業の手を止めて「ああ、こわいなあ…みんなは慣れてしまったのかなあ。わたしは、こわい」そんなことしか言えなかった。教師がしていることの本質的なおかしさを問い、子どもと共に考える勇気がその時の私にはなかった、と。

(2)実践を語ることで自己確証を得られる

白石さんは同号で、4つの実践記録について、分析を行っている。その趣旨は、「実践を語ること、書くことそれ自体が、それ自体が一つの省察となっている。この省察を通して、過去の自分を意味づけ、自分が何であったのかという自己確証を得ることもできる」としている。

 今回の小森さんの繊細な物語は、小森さんにとって「教師が行う教育実践の一つ」であり、私たち読み手にとっては白石さんが言うように「自分の中の『悩み』を蘇らせるものであった。

 高生研において、「このような繊細な若手の実情から議論をとき起こすことをしないと、どんなに鋭い指針であっても聞き取ってもらえないのではないか」と白石さんは危機感を持っている。これまでのようなベテラン、カリスマの「先進的」事例から演繹的に指針を導くやり方は、すでに限界に達している。上から目線の正義は自分だけが握っているという語り口調になってしまうのは、具体的な読者や聞き手を想定していないからである。そのようなことばは、誰にも届いていない。全くその通りである。

 それに対して、小森さんの実践報告は、自分がどのように感じて、どう動いてきたのか、ありのままの心と姿が、一切飾られずに語られている。その悩み揺れ動く姿に、私たちは自分を重ねて、苦しみに共感し、悩みを自分のことのように共有する。

 白石さんからは、権力・支配が最も先鋭に現れるところにいてもがき苦しんでいる繊細な若手の実情を聞きとり、情理を尽くして繊細な若手に語りかけ、「チーム」としての教育実践の方策を共に考えないと、研究会の指針とする「実践のことば」が若手には信用されないのではないか、世代間の葛藤と交流のない組織は、その組織の大小や性格にかかわらず衰退していくという危機感も述べられた。

 これが「実践分析をどう読むのか」という課題と重なっていると私は考えた。

(3)小森の傷つきと生徒の傷つきを重ね合わせることから見えてくること

小森さんは、2年間の公立高校での講師を経て、現在は、校則や圧力、管理、競争のない学校づくりを模索している大阪の私立の通信制高校で毎日を過ごしている。「楽しくなければ学校ではない」という理念を掲げ、教師は様々な問題を抱えている生徒たちに寄り添っている。

 これまでの学校とは違って、誰でも大切にされることを実感することで、生徒だけでなく小森さんも、身体も心も自由になっている。小森さんは「教師としての大変さを聴き合える教師集団が背後にいることに勇気をもらって、弱音を含めた自分の思い」を子どもたちにも教師集団の中でも、語れるようになったという。

 聴いてもらえる相手がいることが自己肯定感につながり、そして目の前の子どもとつながる営みの原動力となっている。(「自分らしい実践を進める知恵と勇気を与えてくれる高生研の例会にしていきたい」と思ったのは、私だけではないのでは?)

例会では、子どもの頃に学校をどのように感じていたか、教員になってどのようなことに悩み、そしてどのようにその問題が解決していったのかを参加者で出し合った。

 そこで体験を話してくださったのが、清田さん(通信制・志成館高等学院)である。「生徒を管理できなければ、指導力のない教師とレッテルを貼られる。しかし、子どもたちが求めているのは、子どもの声に耳を傾けてくれる小森さんのような存在である」というのは、清田さんだけでなく、例会の参加者全員が思っている。(11月28日の県大会では清田さんの実践報告があります。)

 昨年の県大会での田中さん(静岡高生研)の実践でも同様のことを感じた。「子どもが大切にされる学校が、教員も自分を大事にできる学校である」ことを再確認した実践分析であった。

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7月例会報告「わからんときは生徒にきけ~先生に教えたろLINEのすべて」 [例会報告]

 7月の学習会は、大阪高生研の佐藤功さんの社会科実践を熊本の中学生を対象にやってみようという企画でした。佐藤さんは「おまかせHR研究会」で『教室の裏ワザ100連発―遊び心でクラスいきいき!』など、たくさんの実践を創造し、実践を著書などで世に広めてこられました。今回は「LINE」の取り組みです。佐藤さんは54歳で、携帯電話も持っていない人です。そんな先生が、生徒にLINEを中心とした情報モラルを教えなきゃならない。数々の裏技を編み出してきた佐藤さんは、どうしたでしょうか。

 そうだ。 「わからんときは生徒にきけ」だった。
 こうして、LINEについてまったくの素人のぼくだからこそできる授業――「先生に教えたろ」企画を思いつく。目の前の「LINE使いの専門家」たちが、ぼく相手に「授業をする」というのはどうだろう。

 当日は、熊本市の中学2年生が、LINEについて知らない、使ったことがない、見たことがない大人相手に、前もって佐藤先生から出された以下のテーマ(1)~(11)のうち、(1)~(5)について教えてくれました。登場した生徒たちは、生徒指導主事である田中慎一朗さん(40歳)が、ボランティアグループHYT48として募集した中の、「チームJ(情報モラル)」として活動しているメンバーです。ソフトテニス部で活動もしている女の子たちでした。

(1)「メールとLINEはこう違う」
(2)「LINEのエエとここんなこと」
(3)「ここがウザイ、ここがめんどクサイぞ、LINE」
(4)「既読について」
(5)「LINEいじめってこんなもの」
(6)「タイムラインについて」 
(7)「LINEなければ明日はどうなる?」
(8)「10年後、こうなってると思うLINE」
(9)「LINEの会社はこれで儲けている」
(10)「このクラスのLINE現状分析」
(11)「こんなルールがあればみんながハッピー」

 佐藤実践では、以下の指定がありました。
・1班3~5分。「資料プリント」を1枚作成。
・「プレゼン」ではなく、あの手この手を使って、サトウや大人がわかるような「授業」をしてください。
そして佐藤をLINE名人にしてください。
・各班の発表に対して、参加者から質問。責任を持って答えてください。

 田中慎一朗さんは、新聞を活用する教育NIE(Newspaper In Education)に長年とり組まれ、学んだこと、調べたこと、考えたことを新聞としてまとめる実践も積み上げられてきています。最近はICT(Infomation Communication Technology:情報通信技術)を活用したグループワーク(共同学習)にも取り組まれています。今回も、班ごとにタブレットを持ち、LINE画面をプロジェクターに投影しながら、

(1)「メールとLINEがどう違うのか」「なぜメールよりLINEは簡単なのか」についてプレゼンが始まりました。(WiFiで接続し、他の班のタブレット画面に切り替えて説明していきます)

(2)「LINEになぜはまるのか?」については、「暇なときはLINEグループで『かまちょ』とつぶやけば、見た人が答えてくれる」「離れている人といつでもつながれる」「プリ画(プリクラ写真)を掲載するサイトもあり、知らない人でもコメントをすることができ、同じ趣味の人とつながれる」などを挙げました。
 
 また生徒たちは自分のスマホを持ち込んできて、「タイムライン」「コミュニケーショントラブル」についても実演してくれました。LINEはメールと違って開封したら、送信相手に「既読」と表示されます。「既読無視」とは「読んでいるのに、返信しない」ということで、「無視された」とトラブルになることです。

 そのため「やめられずにLINEトークが永遠に続く」ということが起こります。やめるきっかけとして「お風呂スタンプ」「母ちゃんが怒っているスタンプ」が創られたというエピソードも出されました。他にも、文字だけでやりとりをして、表情や気持ちが分からなくてトラブルになった例も、実際のやりとりをして見せてくれました。

 そして佐藤実践と同様に、会場からの質問にも答えてくれました。佐藤さんと田中さんと中学生が織りなす「生徒と参加者が共同で学ぶ夢のコラボ授業」が実現できました。「佐藤さんの発想」と「田中さんの授業スタイル」が、生徒の力を見事に引き出したといえます。

 佐藤実践では、高校生の授業を聴きに、校長、他教科の先生、大学の研究者、区役所の方、3社の新聞記者、関西消費者協会の方々など多くの方々が教室で参観されたそうです。

 その後、地元「旭区役所」から「市民向け人権講座で再演してもらえないか」という依頼があり、「高校生によるLINE白熱講座」が開催されました。200人もの区民相手に寸劇を交え熱演する高校生の姿は、テレビでも放映されました。

 その後、「校内LINEサミット」も開催され、「旭区LINEサミット」に発展。「箕面市の教員向け人権研修会、小学校PTA向け研修、市立図書館の市民講座の講師をお願いしたい」「今回の講座内容をブックレットにできないか」など、高校生にオファーの連続だそうです。

 三和中は千原台高校の生徒と共に、「子どもの安全なスマートフォン利用を考える」パネル討論会に参加し、「スマホ安心活用のために子どもたち自身が考えるスマホのルールづくり」の必要性を訴えました。

 また討論会を主催した県内の教育関係者などでつくる実行委員会では、昨年以降、千原台高校と三和中の生徒らを、スマホ利用法を指導する「ファシリテータ」として養成中で、高校生が中学生に、中学生が小学生に関わりながら、子どもたちがスマホを利用する主役として活動しています。

 佐藤・田中両者とも、生徒と共に教室・学校の枠を飛び出して、まさに「市民」として「市民の学びの場」に参画されています。現代社会に生きる市民として、地域社会に生活する市民として、「現代社会の問題点は何か?」「地域社会の課題は何か?」という視点で授業やホームルーム、学校行事を組み立てていく必要性と可能性を示してくれる実践です。

 田中慎一朗さんには、これまでのHRでの取り組みや、「『後追い型の問題対処としての生徒指導』から『子どもたちが生活者として主体になる生活指導』へ」という模索実践中の取り組みを12月26日(土)14時~16時の例会で報告されます。乞うご期待。

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6月学習会案内「有明海のトスカーナ 天草オリーブ大作戦!」 [お知らせ・連絡]

6月の学習会は、フレッシュな実践レポート2本立てです。

1本目は、苓明高校のO先生の取り組みです。
夏休みに、日本史選択者の有志で、『有明海のトスカーナ 天草オリーブ大作戦!』と題した研究に取り組み、見事、県の地歴公民科研究発表会で優秀賞(13校中3位)を受賞。
地域と結びついた研究発表で生徒たちは現地取材やプレゼンなどに精一杯取り組みました。
その取り組みの実際と、生徒にどのような働きかけをしたのかを分析します。

(1)実践を支えるスタッフの存在
 社会科主任によるテ-マのアドバイス
 天草市(行政)・九電工(企業)・オリーブ振興協議会への取材
 苓明高校の特色を生かした実践(園芸科学科、食品科学科、生活情報科、商業科の存在)

(2)生徒への絶妙な働きかけを行い、その気にさせた
 「失敗で結構」と不安を取り除く的確な生徒への言葉かけ
  生徒に出来る範囲での明確な活動分担を割り振る。
  生徒との協働作業と役割分担
   生徒:アンケート調査、整理,発表
   教師:オリーブ栽培の先進地小豆島への取材

2本目は、御船高校、S先生の「漢字検定の取り組み」です。
生徒の学習意欲を高めるための取り組みでしたが、合格指導の中で気づいたことは、「なめられる」教師が「教育を拓く」ということ。
強制でなく、「ほめる」指導を確立するまでの過程を分析します。
・取り組みの過程で、生徒の実態を的確に分析し、アプローチを修正
・課題の縛りを軽減し知的好奇心を引き出す支援
・自己肯定感を高めたり、労をねぎらう言葉かけ

課題(受験級配当漢字を書いて覚える)の提出を義務付け、終わっていないものは残して消化させるようにしていた。しかし、生徒の反発も多く、何より楽しく学ぶことができていなかったように感じた。楽しく学ぶことができないことは、生徒たちのよさである素直さ、変わろうとするエネルギーを活かすことにはつながらないのではと考えるようになった。

そこで、課題の縛りを軽減し、自由に、且つ知的好奇心を引き出す学習が行えるようにサポートすること、学習意欲を喚起させる声かけ(特に自己肯定感を高めること、労うこと)を心がけた。

2本のレポートは、生徒の力を引き出したいと考えている「あなた」の参考になること請け合いです。どうぞご参加ください。

2本のレポートとも、明確な達成目標をもち、スタッフに支えられ、生徒の状況を分析しながら、生徒が取り組み可能な指導へグレードアップさせています。その中で,生徒達は確かに育っています。学習会では、地域とのかかわり、生徒への言葉かけ等に高い評価がありました。
日時:6月27日(土) 14:00~16:00  
場所:熊本大学教育学部2階 2-C教室

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