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「子どもと教師、どちらも大切にされる学校とは」 [例会報告]

3月学習会報告
 「子どもと教師、どちらも大切にされる学校とは」 浦崎勇一

 『高校生活指導』2015年春号の特集は「教師と生徒の『息苦しさ』を開く」で、学習会で取り上げたのは小森糸さんの実践報告「子どもと教師、どちらも大切にされる学校とは」を共同で読み合った。

今回の学習会をコーディネートした白石陽一さん(熊本大学教育学部)は、この実践を共同で読み合う理由を、以下のように挙げていた。※( )は、浦崎の補足。

(1)若い教師が、自分の学生生活も含めて「学校の息苦しさ」とどう向き合ってきたのか、そのイメージをつかむことができる。

(2)自分の実践を物語ることや省察すること、それ自体が(教師が行う)教育実践(の一つ)であることが理解できる。これは実践分析をどう読むのかという課題と重なっている。

(3)いわゆる「力のない」教師でも、ゼロトレランス的学校秩序の中で、(私たちが)どのようにしたら(自分らしい)実践を進めることができるのか、そのヒントが見える

(1)学校という息苦しさの中で

この小森実践報告は、「繊細な小さな自分」が学校の息苦しさの中で押しつぶされてきた姿が述べられていく。
 読み進めていくと、まるで「小さな自分(私)」がそこにいるように引き込まれていくのがわかる。
 そして赴任したゼロトレランスの規律の厳しい公立学校の中で、教師が生徒を言葉で傷つける姿に心を痛め、子どもと同じように傷つく小森さんの心の叫びが投影される。「不自然で不必要な ことを強いる教師の姿」「式典の際は、生徒指導の教師が、列の間を歩き、生徒を睨みつけては怒鳴っていた」「張りつめた空気と重圧に私自身が押しつぶされそうになった」「体調の悪い子、緊張に耐えられなくなる子など数名がばたばたと倒れていく。けれど式典は続く」。

 読んでいる私でも、背筋がゾッとする。さらには「式典に向けて体調管理がなっていない、最近の子どもは心が弱いなどということが教師間で話される」。そこには、子どもの人権以前に、人権意識が学校という場に、教師の間に共通認識がないことに戦慄をおぼえた。

そんなすさんだ「戦場」で、小森さんはまた心を痛めるのである。「子どもを追いつめている学校や教育の実態については話し合われない」「そのことに対しておかしいと思いながら何もできない無力な私がいた」と。授業中、廊下では子どもを罵倒する怒鳴り声が頻繁に聞こえてきたが、止めにいくことも「おかしい」と言うこともできなかった。いつも、びくっと体が硬直してしまう私は、授業の手を止めて「ああ、こわいなあ…みんなは慣れてしまったのかなあ。わたしは、こわい」そんなことしか言えなかった。教師がしていることの本質的なおかしさを問い、子どもと共に考える勇気がその時の私にはなかった、と。

(2)実践を語ることで自己確証を得られる

白石さんは同号で、4つの実践記録について、分析を行っている。その趣旨は、「実践を語ること、書くことそれ自体が、それ自体が一つの省察となっている。この省察を通して、過去の自分を意味づけ、自分が何であったのかという自己確証を得ることもできる」としている。

 今回の小森さんの繊細な物語は、小森さんにとって「教師が行う教育実践の一つ」であり、私たち読み手にとっては白石さんが言うように「自分の中の『悩み』を蘇らせるものであった。

 高生研において、「このような繊細な若手の実情から議論をとき起こすことをしないと、どんなに鋭い指針であっても聞き取ってもらえないのではないか」と白石さんは危機感を持っている。これまでのようなベテラン、カリスマの「先進的」事例から演繹的に指針を導くやり方は、すでに限界に達している。上から目線の正義は自分だけが握っているという語り口調になってしまうのは、具体的な読者や聞き手を想定していないからである。そのようなことばは、誰にも届いていない。全くその通りである。

 それに対して、小森さんの実践報告は、自分がどのように感じて、どう動いてきたのか、ありのままの心と姿が、一切飾られずに語られている。その悩み揺れ動く姿に、私たちは自分を重ねて、苦しみに共感し、悩みを自分のことのように共有する。

 白石さんからは、権力・支配が最も先鋭に現れるところにいてもがき苦しんでいる繊細な若手の実情を聞きとり、情理を尽くして繊細な若手に語りかけ、「チーム」としての教育実践の方策を共に考えないと、研究会の指針とする「実践のことば」が若手には信用されないのではないか、世代間の葛藤と交流のない組織は、その組織の大小や性格にかかわらず衰退していくという危機感も述べられた。

 これが「実践分析をどう読むのか」という課題と重なっていると私は考えた。

(3)小森の傷つきと生徒の傷つきを重ね合わせることから見えてくること

小森さんは、2年間の公立高校での講師を経て、現在は、校則や圧力、管理、競争のない学校づくりを模索している大阪の私立の通信制高校で毎日を過ごしている。「楽しくなければ学校ではない」という理念を掲げ、教師は様々な問題を抱えている生徒たちに寄り添っている。

 これまでの学校とは違って、誰でも大切にされることを実感することで、生徒だけでなく小森さんも、身体も心も自由になっている。小森さんは「教師としての大変さを聴き合える教師集団が背後にいることに勇気をもらって、弱音を含めた自分の思い」を子どもたちにも教師集団の中でも、語れるようになったという。

 聴いてもらえる相手がいることが自己肯定感につながり、そして目の前の子どもとつながる営みの原動力となっている。(「自分らしい実践を進める知恵と勇気を与えてくれる高生研の例会にしていきたい」と思ったのは、私だけではないのでは?)

例会では、子どもの頃に学校をどのように感じていたか、教員になってどのようなことに悩み、そしてどのようにその問題が解決していったのかを参加者で出し合った。

 そこで体験を話してくださったのが、清田さん(通信制・志成館高等学院)である。「生徒を管理できなければ、指導力のない教師とレッテルを貼られる。しかし、子どもたちが求めているのは、子どもの声に耳を傾けてくれる小森さんのような存在である」というのは、清田さんだけでなく、例会の参加者全員が思っている。(11月28日の県大会では清田さんの実践報告があります。)

 昨年の県大会での田中さん(静岡高生研)の実践でも同様のことを感じた。「子どもが大切にされる学校が、教員も自分を大事にできる学校である」ことを再確認した実践分析であった。

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