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白石提言:「メモ」から始めてもよい、「聞きとり・聞きこみ」の実践分析を [通信原稿]

2月例会報告

 このたびの「実践記録の分析」(「分析」という用語は用いたくないのだが、ここではその理由は省く)のために報告してくれたのは若い教師であった。彼にとって初めてのことなので、まず一枚だけ、要点だけを書いてきて、実践の内容については口頭報告でよい、ということにした。

 その理由は二つある。理由の第一は、実践報告をするためのハードルを低くする試みである。いきなり長い文章とか、実践の構想と省察とか、むずかしいことを要求しても無理である。まず実践を語ってみる、語る過程で自分の悩みや自分の課題が明瞭になってくる。そのために必要なことが、サークルの参加者の「聞きこみ・聞きとり」なのである。

 実践記録の読みにおいて、もっとも重要なのは、「聞きこみ」である、というのが私の見解である。この点についても詳細に論じる余裕はないが、いくつかだけその理由を挙げておく。実践記録は、その一部だけを裁断して評価したり、評価する人が高みにたってアドバイスしたりするのでは、レポートした実践家に響かない。レポーターの意図や実践の物語に即して、あなたには指導のチャンスがあったのです、という言い方をしないと、レポーターがイメージを伴って納得しないし、批評した人自身の成長にもつながらない。

 理由の第二は、若い教師に、いわゆる「官制研修会」に提出するようなレポート書いてほしくなかったからである。「官制研的」というイメージは、県や学校の教育目標を列挙して、それを達成するために自分のクラスで何にとりくんだのか、秩序を維持するために服装や遅刻などにどう対応したのかなど<私はきちんと指導しています>という証拠と<生徒に学びながら成長していきます>という決意がちりばめられているものである。

 これは、2011年の高生研全国大会の基調である「実践記録を書くことの意味」をめぐる議論のなかで浮かび上がった問題である。若手が「書けない」ことに加えて「書くことの視点がちがう」ことも問題になった。何でもいいから書いてほしい、と依頼しておきながら、その内容が依頼者の意図に沿っていないことになり、議論ができないので落胆したり、若手を批判したりする、このような不幸な事態を避ける工夫が必要である。

 だから、このたびの実践分析会は、報告者に「一枚のメモ」をもとに話してもらい、参加者は「聞きこみ」に徹することにしたのである。また、実践記録を「読む」ということは、報告者に対して意見をするというよりも、自分の問題関心を抉り出し、それを表明するという性格をもっている。文学理論が教えるように、文学作品を読むとは「作者」の意図を読むのではなく、読み手である「自分自身の」問題関心を読むことなのである。この「論理」は実践記録を読む際にもあてはまる。

 「実践記録を読むとは自分を読むことだ」という観点について、一言だけ述べておきたい。“手前味噌”になって申し訳ないが、私は、若い教師が書いたテクストを読みこむことで、それに対する私の立ち位置や(ある程度)普遍的は対応をていねいに語るように呼びかけられたと感じたのである。それが、「公的」指導と「私的」指導の二つの顔をもつ、という方策であった。そして、この方策は別に新しいものでもなく、すでに高校生活指導実践史の中にヒントとして宿されていたこともまた、重要なのである。私たちの先人と仲間たちの営みに多少の自信と矜持をこめて、足元にある記録を活用したい、と改めて実感したのである。(しらいしよういち)

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