SSブログ

白石分析:「学級びらき」を事例にして、教師の「指導」をイメージする [通信原稿]

 3月26日の研究例会は、菊池高校と大阪旭高校の交流体験、あるいは菊池川流域プロジェクトと大阪高生研のコラボ企画であった。この時に、大阪高生研の佐藤功さんに「学級びらき」の実例を演じてもらった。それは、「自己紹介ゲーム」である。以下、敬称は省略する。(白石陽一による分析)

 「学級びらき」で定番なのが自己紹介なのであるが、これは生徒にとって<恥ずかしい><めんどくさい><あきている>イベントであり、本音をいえば<してほしくない>行事でもある。では、どうするのか。自己紹介を「遊び」化してしまうのである。ゲーム感覚で、生徒を「のせてしまう」のである。

 私はこの行事の意味づけをしてみたい。
 なぜ学級開きを行うのか。なぜ学級びらきに手の込んだ配慮をこめるのか。その一般的な回答は、こうである。最初の「出会い」を大切にしたい。最初の出会いに失敗すると、後々生徒との関係を良好にしていくことに苦労するから、である。この回答それ自体に間違いはない。だが、私はこれ以上の意味を付与してみたいのである。

 まず、佐藤に演じてもらった学級びらきのゲームは、「きちんと成功する」こと、「スムーズに進行する」ことを積極的には意図していない、と私は推測する。自己紹介ゲームで、<自分の誕生月を書いてください。他の月に生まれた人にサインをもらってきてください>といっても、おもしろそうな表情をしてのってくる生徒もいれば、めんどくさそうな表情でのろのろと動くをする生徒もいる。このような生徒の反応をキャッチすることが、じつは、このイベントの眼目である。要するに、イベントを仕掛けて、生徒の反応を観察して、生徒の個性の一端を発見し、その個性に合わせて語りかける方法をさぐる、この一連の流れをイメージし展望しておくこと、これを教師の指導と呼ぶ。

 あるいは、こんな楽しい活動をしながら、ゆっくり話し合いながら暮らしていこうという教師のメッセージを間接的に届けることも狙っている。
 
 何らかの活動をとおしてしか、教師は生徒を理解することはできない。これを「関与しながらの観察」と呼ぶ。生徒理解とは、アンケートをとればできるものではない。アンケート項目が陳腐であるなら、生徒の内面や葛藤などを知ることはできない。アンケートをとっても徒労に終わることもある。安直なアンケートはアリバイづくりにしかならないし、教師を多忙においこむだけである。

 同じような意味で、活動をとおしてしか教師と生徒はつながることはできないし、生徒も成長することはできない。活動を組織しないで、言葉による説教だけで生徒を教育することができるという悪弊は、今でも教育現場に残存している。学級びらきを、教師による<熱い決意>や<真剣な話>だけにしない理由も、この点にある。それは、教師の主観的善意のおしつけになる危険があるからだ。

 いまこの問題にたちいることはできないので、一言だけ述べておく。ハラスメントとは、「善意の暴力」であり、力関係の落差に由来する「暴力」「抑圧」である。
 佐藤も、当然、このような指導のポイントを心得ているはずだ。だから、「元気に反応してくれた〇〇君には、明日の号令係りをお願いしようと思うんだけど」と、次なる一手を打つことを忘れずに紹介していたのである。この時の模擬授業では、「反応の悪い生徒に対して、どうするのか」について、佐藤の話はなかったと記憶する。

 私なら、たとえば以下のような手立てを考える。参加の態度がよろしくなくても当面は、放置しておく。休み時間に「あなたは、みんな以上に<おとな>なのかな」とか囁いてみる。いずれにしても、イベントの成功それ自体よりも、生徒と対話するための「きっかけづくり」、あるいは今後の指導を「とおしていく」一歩と位置づけることが大事である。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。